新説・日本書紀① 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)1月20日 土曜日
これらの学説に対して、神功皇后を実在と見る私は、1998年5月2日、香春の「鏡の池」を初めて訪ねた。神功は「書紀の中でも豊前国の熊襲を退治して回るが、「仲哀峠」や「鏡の池」が記されていない。 案内に従って進んだら、とある民家に入ってしまった。間違ったと思い、車を反転させようとしたら、玄関から人が出てきて、「鏡の池はここでよかとですよ」 と声をかけられた。声の主こそ柳井秀清さんだった。 「鏡の池」見学後に案内されたのが「おほきんさん」だった。 「大王様?」。天皇の古い呼称である。 「香春に大王様?誰?」。頭は空回りするばかり、だが、眼前に確かに弥生期の円墳がある。 この時、同行していたのが古田武彦氏 (故人)であった。邪馬台国近畿説が圧倒的多数を占める時代に、「『邪馬台国』はなかった」を発表し、第2書「失われた九州王朝」以降、「九州王朝論」 を唱えた人物である。宿への帰途、氏がポツリ。「仲哀天皇の墓でしょうかね」 しかし、氏の九州王朝論は詰まる所「筑前一元説」の考え方で、卑弥呼も倭五王も日出処天子もすべて筑前にいたとす る考え方である。一方、書紀に描かれた神武天皇から天智・天武までの歴代天皇を全て「近畿大和分王朝」の系譜だとした。結局、通説と同様、天皇は誰一人九州にいないのである。 古代田川に天皇がいた
古田氏の筑紫一元論に対し、私は素直に「豊前の大王様」、特に「田川の天皇」を真剣に考えることにした。その正体を突き止めたい。その年の夏から十数年に及ぶ香春詣で、否、柳井さん詣でが始まった。
印象的だったのは、平松和夫さん(故人の鉱石のコレクションを見せていただいたことだ。香春三ノ岳の横鶴鉱山から出た自然金には度肝を抜かれた。記紀などの神代に描かれた「天香山」からは金と銅が採れたと記してある。が、奈良県の天の香具山からは何も出ない。香春三ノ岳こそが本物の「天香山」と比定した。その後、「神武は筑豊に東征した」を著わし、「おほきんさん」を本物の「畝傍東北陵」すなわち「神武天皇陵」と比定したのである。また、「真実の仁徳天皇」 を著わし、再び、「香春の天皇」を論証した。 次に驚かされたのが「宮原盆地の謎の石造りの地下水路」の存在だった。2011年、「頂吉」の地名に引かれて、 十何度目かの香春探訪の際に突如、柳井さんの口から出た。その謎の地下水路こそ、斉明天皇紀に「水工をして渠穿らしむ。 香山の西より、石上山に至る。」と記された「狂心の渠」に違いないと 直観した。以後も、次々に日本書紀と事跡の合う遺跡が現れた。「古代田川に天皇がいた」との確信がいよいよ深まった。 私は筑豊の人々に、筑豊が古代ヤマト の地であったことを伝えたい。 筑豊の真実の古代を知ってもらいたい。「新説・日本書紀 福永晋三と往く」をつづろうと思う。 (記紀万葉研究家)
次回は2月3日に掲載予定です
石灰岩が採掘される前の香春岳
(香春町教育委員会提供)
ふくながしんぞう
鞍手高をへて国学院大文学部文学科(漢文学専攻)を卒業後、2013年まで都立高校教諭を務める。
17年には川崎町に研究室を設け、「倭国」は「豊国」 との自説に基づいた田川と筑豊の古代史を発信している。
著書「真実の仁徳天皇」(不知火書房)や論文「神武は筑豊に東征した」(同時代社の「越境としての古代第6集」に収録)など多数。